人物(南北朝武将列伝)

Name:Masashige Kusunoki

   楠木正成

(?~1336)大坂河内一帯に勢力を張る。後醍醐天皇の挙兵に呼応し、赤坂城、千早城で鎌倉幕府軍を釘付けにした。建武の新政下で和泉、河内守護職。足利尊氏に湊川で敗れ、自害した。


Name:Hirano Syogen

   平野将監

 楠木正成が挙兵したとき、配下であった平野将監は上赤坂城へ籠り、矢を放ち幕府軍を釘づけにした。だが、水路を絶たれると次第に抵抗を弱めていった。将監は場外の敵と刺し違えようとする兵たちを押し止め、水断ちから13日後に、降伏して生き延びる道を選択した。だが、幕府軍は厳しく、将監と282人の兵たちは京の六条河原で、全員処刑された。

 

Name:Masatura Kusunoki

    楠木正行

(?~1348) 

「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。

生年については明確な史料が存在しない。『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから1326年とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせ、父の戦死の時点で20歳前後だったという説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない。1336年の湊川の戦で父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという。

正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。


Name:Masasue Kusunoki

    楠木正季

(?~1336)

正成の弟。兄に従い鎌倉幕府軍と戦い、建武の新政の樹立に貢献。武者所に属し、洛中を警護して治安の維持に努めた。湊川で兄と共に自決した。